2011年12月21日水曜日

『ハンナ(HANNA)』王子不在のお伽話

主人公も、主人公の敵も、主人公を助けるのも、女。
出てくる男たちはことごとく彼女たちにぶちのめされ殺される。
最後は女と女の一騎打ちである。
物語は、グリム童話を想起させるアイテムがちりばめられ、さらには設定の荒唐無稽さもあって、まるでおとぎ話のようだ。残酷で、笑えて、考えさせられ、そして主役ハンナを演じるシアーシャ・ローナンが非現実的なほど美しい。敵役マリッサを演じるケイト・ブランシェットは、だからもちろん、魔女である。

マリッサの魔女ぶりは徹底している。
美しさに固執し、おそらく同じくらい若さにも執着がある。鏡で顔をチェックし、歯を磨き、服や靴を入念に選ぶ。むろん、ブランドものに決まっている。
そのくせ「子供を産んだことがない」からわからるまいと、主人公の祖母になじられ逆上する。
マリッサはハンナの母にも死の間際に「あの子はつかまらない」と吐き捨てられた過去がある。
マリッサは「白雪姫」の継母なのだ。
彼女は子を産まない母。子を産んだ母たちから、彼女は見下される。それが彼女の中にくすぶる怒りといら立ちの根源だ。
であれば、ハンナは白雪姫のようなものか?
でも彼女を助け出す王子様は劇中遂に現れない。彼女の父親は猟師と7人の小人を合わせたような存在だが、【王子】という白雪姫復活のための重要な要素がないために、白雪姫は自らが主体性をもって敵に対峙しなければならない。
グリム童話の「白雪姫」では、王子と白雪姫の結婚式で、継母は焼けた鉄の靴を履かされて死ぬまで踊らされるが、ハンナには王子もおらず、結婚式というセレモニーもない。
決着は、自らの手でつけるしかない。ハンナは白雪姫と違って、自らの手を汚すのだ。

この映画の中の、シアーシャ・ローナンとケイト・ブランシェットは、どこか似ている。
透き通るような白い肌。相手を射抜くような強さのある視線。
ハンナが老獪さを身につけたら、マリッサのようになるのだろうか。

ちなみに、グリム童話の初版本では、白雪姫を陥れるのは、継母ではなく実母である。



2011年12月3日土曜日

エリック・クラプトン&スティーブ・ウィンウッドに行ってきた(2011.11.26 in Hiroshima)

エアロスミスはいままで観たことないものを観た!と思った。
エリック・クラプトンは、聴いたことのないものを聴いた!と思った。
だからだろうか、エアロスミスの時のように、コンサート後すぐにブログに書く気になれなかったのは。音を文字で表現することくらい難しいものもない。

前日聴いたエアロスミスのギターだってすごい。
だけどそれは、音だけではなくて、眼で見せる要素も強い。あれは音だけ黙って聴くものではない。ステージでのパフォーマンスも彼らの音楽の重要な要素だ。
エリック・クラプトンは、彼のギターの音は、クラプトンにギターを弾くこと以外のパフォーマンスを要求しない。必要がない。
実を言えば歌さえ不要な気がした。歌は、スティーブ・ウィンウッドでいい。
ギターが。ギターが、ギターが。

それ以上、私に言えることは何もない。

2011年11月25日金曜日

エアロスミスを観に行ってきた(2011.11.25 in Hiroshima)

確かに、エアロスミスは、ボン・ジョヴィよりカッコイイ。
音楽界における我が最愛のスターはボン・ジョヴィ(そしてそのフロントマンであるジョン)だが、彼らが自分たちで言ってたとおりだ。
音楽、演出、何もかも。
でも、ライブが終わって思い返せば、かっこいいより「美しい」と言った方が正しい。
ああ、美しさを感じたロック・バンドなんて、はじめてだ。


でも、スティーヴン・タイラーは、美男子ではない。メンバーも、美形とはいえない。
スティーヴンは皺くちゃの河童のような顔に、キンキラキンの服を着て、嗄れ声と裏声で歌い、くにゃくにゃと踊る下品で怪しいオッサン(ジーサン?)である。
それなのに、ステージで歌い踊る彼は美しかった。エレガントだった。
あのカタチに入っている魂が「スティーヴン・タイラー」でなかったら、あの美しさは生まれないだろう。「スティーヴン・タイラー」だからこそ、その魂の輝きがカタチを超越してしまう。
テレビでは観たことのあるエアロスミスだが、ちょっとスティーヴンの容姿は苦手だった。
でもホンモノを観てしまったら・・・・・・。
姿形など、まったくただのイレモノだ。
放出される魂の輝きの前に、カタチなど無意味である。陳腐な言い方をすれば、あれこそがスターのオーラなのだろう。



私は音楽ファンではなく、単なる音楽好きでしかないので、音楽に関しては何も言えない。
だが、音楽を超えたところで、演者のもつ魅力はわかるつもりだ。

スティーヴン・タイラーはMCで、私たちに向かって「beautiful」と言った。
ジョン・ボン・ジョヴィはよく「friendship」という言葉を使う。
そこに、バンドの魅力、スタイルの違いを感じる。
エアロスミスとボン・ジョヴィに限らず、大スターのもつ魅力はそれぞれ違うが、共通していることは、その魅力が圧倒的なものだということだ。
カタチを吹き飛ばすほどの魅力、輝き。
これを感じられるのは、やはりライブに勝るものはない。


『THIS IS IT』を観たとき、マイケル・ジャクソンのライブに行っておけばよかったと思った。
クィーンのライブDVDを観るたびに、自分がもう少し早く生まれてきてたらなあと思う。

スターだって、死んじゃったら、もう会えないんだよ。

だから、明日はエリック・クラプトンのライブに行ってきます。

2011年11月9日水曜日

『世界侵略:ロサンゼルス決戦(World Invasion:Battle Los Amgeles)』 エイリアンがマクガフィンになる日

SFを観に行ったつもりだった。エイリアン対人間を観に行ったつもりだった。昔から、未知の生物に対しスーパー兵器ではなく、現実の兵器や手持ちのものを利用して闘うというシュチェーションが大好きだったからだ。
しかしこの映画ではそのシュチェーションはさらに進化し、リアルで、明日にでも世界に起こりうる出来事のように描いている。映像も、物語も、である。
エイリアンの正体や目的などの謎解きについては重きをおいていない。これは『スカイライン-征服-』も同じなのだが、『スカイライン』は主人公カップルの身に起きた出来事にはSF要素が強かった。これが『世界侵略』では皆無に等しい。とにかくリアルなんである。
リアルさを強調したいのか俳優もずいぶんとリアルで、派手さのない演技派アーロン・エッカートが主演。本当に海兵隊にいそうだ。女優は、もはや「アクション女優」とカッコつきで呼んだ方がいいミシェル・ロドリゲス。メインキャストとしてクレジットされていないその他の海兵隊員を演じる俳優も、他の戦争映画か軍の出てくる海外ドラマで観たような記憶があり、とはいえ目立つ容姿ではない。本当に、ミシェル・ロドリゲス以外は華がなく、そこらにいそうな役者ばかりで、『スカイライン』とはまた違った地味な布陣である。

そもそも、この映画にエイリアンは不要である。
エイリアンの代わりにものすごく強力な正体不明の敵が出てきても同じことであって、それが宇宙から来るのか同じ人類なのかというだけの違いでしかない。
エイリアンは単なるマクガフィンであり、この映画は、強大な敵を前にどう戦うか、というシンプルで根本的で、実にミリタリーな思考でできあがっている。
だから、もし本当にエイリアンが地球に侵略してきたとしたら、この映画のように、我々の出来うる範囲で闘うしかないのだろう。
夢も希望もスーパー兵器もなく、これがリアルなのだと思うと、少しエイリアンと遭遇するのが怖くなった。

2011年10月31日月曜日

『モールス(Let me in)』 純愛の行き着く先

この映画をホラー、スリラーと呼ぶには抵抗を感じる。確かに恐怖の描写はある。謎めいた雰囲気も漂う。実際、観客には明かされない謎も多くある。
内向的な主人公オーウェンが出会う、謎めいた少女アビー、そしてその父親。設定は、さほど目新しくはない。終わり方も、似たものはいくらでもあるだろう。
だが少年少女の純愛の香りが漂うことによる切なさと、父親の正体とオーウェンが重なるがゆえのやるせなさは、この映画独特のものだ。原作『MORSE』も、その映画化である『ぼくのエリ 200歳の少女』にすら、その2つは存在しない。
特に「父親」の正体は、オーウェンとアビーの純愛の、やがて行きつく結末を突きつけられたようで悲しみは深い。病室での、父親とアビーの最後のシーンから、私はこの映画が単なるホラーには思えなくなってしまった。
純愛ものといえば、その代表として『ロミオとジュリエット』がある。添い遂げられるはずのない2人がそれでもなお共にあろうとして、結局は死を迎える物語だ。
この『モールス』では、愛し合う二人の結末はすでに「父親」を通して劇中に暗示されている。それゆえに、エンディングは結末に向けての出発点なのだ。
われわれは、オーウェンとアビーの結末を知っている。少なくとも、こうなるのでは、という危惧を抱いている。
それなのにエンディングでのオーウェンの顔には、その幼さゆえにか、いまアビーと共にある幸せと自立したことへの喜びが漂う。
彼はまだ、自分の未来に起こるであろう結末を、少なくとも自分のこととして感じてはいない。彼は昇ってくる朝日を微笑みながら見つめ、アビーと語る。彼らは幸福に満ちている。
そしてこの時、観客とオーウェンとの間にあったはずの「共感」は決定的に失われる。
車窓から見える朝日がなぜか落日にもみえるのは、観客である我々だけなのだ。

2011年10月29日土曜日

『テンペスト (The Tempest) 』 性の逆転によって本当に赦しのテーマは強調されたのか?

まったく期待通りの作品かといえばそうではない。正直、ジュリー・テイモアによるシェイクスピア作品の映画化、ということで、勝手に『タイタス』のような作りこんだ映像世界を期待していたので、その意味では完全に肩すかしとなった。あれほど自然を織り込んだ世界を撮っているとは想像していなかったのだ。
だから、この映画から私が感じた魅力は映像ではなかったのだ。最高の演出は、主人公を公爵から「公爵夫人プロスペラ」にしてしまったこと、性の逆転である。
「テンペスト」という作品に内包される「赦し」というテーマが、母性を加えることでより引き立つとテイモア監督は考えたらしい。しかし、私には母性よりもむしろ、プロスペラとその周辺に群がる、人間でない存在達との間に醸し出される、セクシャルな香りの方を強く感じるのだ。

ヘレン・ミレンは『RED』で、白いドレスの深いスリットから美脚をのぞかせ、お色気たっぷりの美マダムぶりを発揮していたが、『テンペスト』では露出がない分、ふとみせる表情に性を感じる。
彼女が使役する妖精エアリアル、怪物キャリバン、彼らは本当にプロスペラの魔術によって縛り付けられているのだろうか。彼女を恐れているのだろうか。
私には、彼女自身に惑溺しているようにしか見えない。
娘とともに生き残り、復讐の想いをたぎらせ、それでいてなお高貴さを失わない。そんな魔女にさげすまれ使役されて、怒りや憎しみを覚えることが、一種の昏い悦びだったではないだろうか。
自由になったエアリアル、島を取り戻したキャリバンが、決して幸せそうには見えなったのは、私の思い込みだろうか。
同時に、彼らに見つめられるプロスペラには、若い取り巻きに対する、年経た女の征服欲がにじむ。エアリアルに耳元でささやかれ、彼女は何も感じなかっただろうか。娘のところに夜這いに来たキャリバンに対して、何がしかの嫉妬は感じなかっただろうか。

『テンペスト』は赦しの物語であるという。だが私は最後までプロスペラに寛容な心を感じなかった。男たちへの赦しは、母性よりも女王の風格をもって行われたのだから。
そしてエアリアルも、キャリバンも、ついには彼女に捨てられるのだ。解き放たれたエアリアルの表情には寂しさがただよい、去っていくプロスペラを見送るキャリバンにも喜びはない。キャリバンと見つめ合い、そして去っていくプロスペラの顔にさえ、目的を果たした高揚感は感じなった。
彼女は自分にかしずく存在を捨ててまで、人間世界の地位を取り戻したかったのか。それこそが母性というものなのか。
プロスペラが母でなかったら、彼女は島からでなかっただろう。少なくとも、私がもし彼女なら。

2011年9月17日土曜日

とりいそぎ作ってみた

とにかく楽天ブログから脱出したい一心だったんですが、bloggerは自由度が高すぎて逆に難しいですね。でもまあ、昔やってたHP作成よりは楽なんだから文句は言えない。シンプルに書くことに集中しようかなと思ってます。